2006年 | ||||||||||||||
9月2日 |
●夕刻、成田空港よりキャセイパシフィック便(香港経由)でインドに旅立つ。 デリー空港通路(2007年1月撮影) |
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9月24日 |
●キャセイパシフィックで帰国予定だったが、戻らなかった。 | |||||||||||||
9月24日〜 | ●家族が心配して、外務省やデリーの大使館に連絡を取り始める。 ●25日から授業も始まり、26日にはテストもあったが、 耕太君が欠席したままなので、級友たちも心配し始める。 |
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10月2日〜 | ●航空券が失効する。それまで個人情報ということでキャセイパシフィックから教えてもらえなかったが、 帰国便はキャンセルされていないまま搭乗していないことが分かる。 ●家族が引き続き、外務省、大使館、領事館に連絡を取る。 友人、知人、保護者、NGO関係者などにも支援の輪が広がり、 インド在住者、新聞社、国会議員等に連絡を取り始める。当初は、 「事件性がない」と取りあってもらうのが難しかったが、徐々に協力を 得られるようになる。。 ●大学のサークル仲間が中心になり、ホームページを立ち上げる。 ●ネットのmixi、および「地球の歩き方」等の掲示板にもトピックを作成。。 ●学生たちが「地球の歩き方」を見て、インド全土200軒余の宿に 耕太君の宿泊記録がないか、メールにて問い合わせる。 返事があったのは数軒で、有効な情報とはならなかった。 |
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10月17日〜 | ●デリーの日本大使館が、管轄のチャナキャプリ警察に届出を出す。 ●インド警察が捜索を開始したとの知らせが入る。 ●耕太君が3日午前1時59分にデリー空港で入国手続きを取っていることが、 最終的に外務省により確認される。 ●デリー市内に、3日に耕太君の宿泊記録はないことが分かる。 デリーの安宿街パハルガンディ (2007年1月撮影) |
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10月25日 | ●両親がインドに捜索に向かう。 夕方の7時過ぎの到着だったが、驚いたことにすでに警察が空港に待機しており、 事情聴取が始まる。耕太君に家出の動機がなかったか、交友関係等を深夜まで 詳しく聞かれる。同時にマスコミ数社も空港に来ており、記者会見も行われる。 (インド警察がどこまで協力してくれるのか、渡航するまで分からなかったので、 これは意外な展開だった) |
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10月26日〜 31日 |
●インド国内の新聞、テレビなどに報道があいつぐ。日本の新聞、朝日、読売、毎日、サンケイ、 およびテレビ朝日、日本テレビ、ネットのニュースに事件が報道される。 ●両親、および現地協力者、それにインドを旅行中だった先輩二人が駆けつけて、 パハルガンジー、およびコンノートプレス周辺でビラをまいたり、関係各所に協力を 依頼する。 ●デリー空港国際警察が大規模な体勢を組んで捜査にあたる。 デリー空港を中心に、バラナシ、スリナガルプネーなど日本人旅行者の立ち寄りそうな所を探す。 |
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10月31日 | ●アグラに宿泊記録があるらしいとの連絡が捜査官より大使館に入り、 母親は帰国予定を延ばして、その後の情報を待つ。 (アグラ情報は日本で情報を待っていた私たちも、非常に驚いた。 それまではデリー空港から行方不明になったとばかり思っていた) |
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11月1日 | ●アグラの宿泊記録に残されたサインは、偽造されたものではないか という報告が届く ●チェックインしたときのサインは耕太君自身のものであることを ファクスにて母親が確認する。 |
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11月4日 | ●11月4日、インド警察(デリー空港国際警察)が正式発表を行う。 〜〜〜〜〜〜〜〜以下、警察の公式発表〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 (茶色の文字は「探す会」の補足部分です) ■デリー到着後の足取りを確認。キャセイで入国したあと、トーマスクックで100ドルを両替する。 その後の足取りは不明。 午前7時半ごろ、ニューデリー駅のパハルガンジ側のドリンクスタンドにいるところを旅行社の客引きが 声をかけ、ゴールマーケットのオーヴァーシーズ・ツァーズ・インディアに連れて行く。 ここで20,700ルピー(約5万5千円)のツァーを組む。
■旅程は以下の通り 9月3日(日)デリー発 ジャイプールへ (運転手+レンタカー) 宿舎:Hotel Goongath 2泊 9月5日(火)ジャイプール発 アグラへ (運転手+レンタカー) 宿舎:Hotel Chanakaya 1泊 9月6日(水)アグラ発 バラナシへ(7日着、列車) 宿舎未定、4泊 9月11日(月)バラナシ発 ブッダガヤへ(列車) 宿舎未定、3泊 9月14日(木)ブッダガヤ発 コルカタへ(15日着、列車) 宿舎未定、5泊 9月20日(月)コルカタ発 デリーへ(21日着、列車) 9月23日(土)(デリー発 帰国) ■デリー出発後のアグラまでの行動 9月3日午前11時頃レンタカーにてデリー出発、午後4時前にはジャイプール着。 出ていったとも言われる。また駅で耕太君を待っていたというのも、他には証言者はいない。ホテル側は 運転手が午前中に出て行き、そのまま電話をして問い合わせることもしてこなかったと証言している) ■一方、カシミール、バラナシ、プネーに派遣された警察の捜索チームは、宿泊記録 ■警察の感触と意見 警察としては、事件、事故の両面を考慮して捜査している。 ■警察は旅行を手配したOverseas Tours India社及びHotelChanakyaに対して、自らが接客 |
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11月8日 | ●母親、大学の先輩、大使館員がアグラにて関係者たちから証言を再度取る。 それぞれの証言が食い違ったり、同じ人が違うことをいうので、困惑する。 ●とりわけホタルのフロントが証言を変えたことは重大だ。 「運転手が部屋へ行こうとしたのでロビーから電話させた。 運転手は耕太君に夜の観光へ行こうと誘っていた。 しばらくして耕太君が降りて来て、運転手と3人のインド人と一緒に出ていった。 3人のうち2人はたまたまロビーに居合わせただけかもしれないが。 一人はガイドだったのではないかと思う。 彼らはそのまま戻らなかった」と、まったく新しい証言をする。 ●母親、学校の先輩、大使館員がホテルの部屋で現場検証を行う。洗面台などは使われた痕跡があったが、 シャワーは使われておらず、ベッドにも寝た形跡はなかったという。
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11月9日〜 | ●母親たちがフロントから聞いた証言にアグラ警察が驚き、再度、フロントから証言を取るが「記憶が ハッキリしない」と言ったと伝えられる。 |
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11月16日 | ●捜査はアグラ警察に移管される。 ●捜査の進展を確認するが、なし。 |
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11月〜 12月 |
●友人知人、大学関係など、協力を依頼する。 ●捜査の進展は相変わらずなし。 ●大学でサークル仲間を中心に、キャンパスにてカンパを募ったり、 ビラをまく。 ●ネットやメールで寄せられた情報のうち、重要と思われるものは大使館に送る。 ●さる日本の政治家が、インドの有力な政治家に文書を手渡す。 【番外・別の日本人旅行者失踪事件】 年末から正月にかけて、日本人短期旅行者がアグラまで行ったが、海外が初めてだった こともあり、カルチャーショックに陥り、荷物をホテルに置き、チェックアウト手続きもとらずに デリーまで戻った。空港から帰国便に乗ろうとしたところを、捜索願を受けていた日本大使館職員 に保護される。この事件が「耕太君、発見される!」と一部で誤報された。 |
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2007年 | ||||||||||||||
1月14日〜 25日 |
●母親が再度、支援者とともに、インドへ向かう。 ●大使館の手配により、マスコミ各社に働きかけを行う。 デリー市内で3社、テレビの通信社。アグラ市内で3社。 ●デリー市内で耕太君が行った場所、デリー駅、旅行社に 行ってみる。デリー駅に10月に貼ったビラはすべて消えていた。 ●アグラ市内でアグラの警察官、大使館員等と一緒にビラをまく。 チャナカヤ・ホテルから、アマルホテル、ピザハットなどを経由して、 シャージャハーン公園までの商店や、屋台、リキシャ、路上生活など に話しかけてビラを渡しながら歩く。。事件のことを知っており、 同情を寄せてくれる人もいたが、知らない人もいた。 ●チャナカヤ・ホテルへ行き、部屋の位置、ロビーの様子を検証する。 フロントは玄関の真正面にあり、フロントの目を盗んで、外部の者が 部屋にあがったり、荷物を持ち出すことは不可能なことを確認する。 ●アグラ警察にて長官や捜査官に会って、話を聞く。 〜〜〜〜〜以下、アグラ警察の見解〜〜〜〜〜〜〜 これまで関係のありそうなところはすべて調べた。 しかしあやしげな点は出てこなかった。 日本人を相手にしているアグラの観光業者4人も 取調べを行ったが、疑わしい点はでなかった。 近隣の仏教寺院もアシュラム(ヒンドゥ教修養所)もすべて 調べたが、目撃情報は得られなかった。 ここまで調べてなにもなかったのだから、アグラにはいないに違いない。 これから隣のラジャスタン州やバラナシの警察とも協力して、 捜査網を広げたい。 〜〜〜〜〜以上〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 こちらからは、運転手などを再度調べてくれるように要請。 ●身元不明の遺体の写真を日本人通訳と大使館職員が調べるが、該当する ようなものはなかった。 *調書は見せられていない(同行した大使館の捜査官によれば、 日本でも調書は家族には見せない。調書を見せるのは、容疑者も かたまり、裁判になるという段階でとのこと) *また報告書のようなものも用意されていなかった。 *すべて口頭で。 *長官は事件当時の人から代がかわっていた。 (インドの警察では警察長官、担当者、職員がめまぐるしく替わるので、翻弄される) ●アグラ市内で旅行者の立ち寄りそうなところを見る。 ●サクラホテルの主人に話を聞いたり、近くのバスターミナルで ビラをまいたり、貼ったりする。遠隔地に向かうバスの車体にも ポスターを貼らしてもらう。 ●アグラ市長に協力を要請する。30台後半の女性市長は10月中旬に 選出されたところだったが、事件のことは知らず、顔色を変えていた。 ●観光局にも協力を要請。非常に協力的だった。
●バラナシまで足を伸ばし、警察長官に協力を要請。 日本寺にビラを置いてくる。日本寺の宿泊記録を調べる。 久美子ハウスへ行き、バラナシの事情なども聞く。 |
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2月 1日 |
●CBI(Central Bureau of Inevstigation){インドのFBIのようなもの}が 捜索を開始したと知らせが入る。 耕太君の載っているCBIのページ。 http://cbi.nic.in/Missing/Kota_93458935.htm |
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2月27日 | ●ビザが失効する。 | |||||||||||||
3月 | ●CBIからさる政治家に非公式に、「インド中にロールアップ作戦をかけたが、どこにも耕太を見つける ことはできなかった」と報告が入ったと知らされる。 ●デリーの探偵事務所にも個人的に調査を依頼する。 報告書にはとりたてて新しい情報はなかったが、あのホテルのフロントが 再度、「耕太は運転手たちと出ていった」と証言したのが注目された。 |
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4月 | ●デリー警察が捜査を再開したと、デリーの英字新聞「ヒンドゥスタン・タイムズ」に載った と連絡が入り、一時は期待された。 (しかし、なんらの成果もあがらず、閉鎖された模様) |
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6月 | 日本大使館の再三の要望により、アグラ警察が初めて報告書をよこしたが(6月15日付け)、 内容はおよそ空疎なもので、失望させられる。 A4の紙3枚に渡ってヒンドゥ語で手書きで書かれて(インドでは正式の文書は英語)いたが、 最初の2ページはこれまでの空港警察の発表と同じことを繰り返し、 3ページ目に耕太君のポスターをコピーして、ボードガヤーやカルカッタなどの宗教施設や 警察署などに送ったり、新聞やTVで報道したりなどしたことが書いてあった。さらに 運転手、ガイド、ホテルのオーナー、マネージャー、従業員を再捜査したが、何の手がか りも得られなかったと述べてあるだけだった。 |
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9月 | 「TIMES OF INDIA」などのデリーの英字新聞(9月24日版)などが、日本女性2名がアグラの ホテルでレイプされた事件を報道する。飲み物をふるまわれたところ、意識不明に陥り、 そこを襲われた模様。犯人は日本語が堪能だったとのこと。 |
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10月 | イランを旅行中の横浜国大生が武装集団によって拉致されたとの報道が入る。 (→幸運なことに、翌年6月、8ヶ月ぶりに解放され、無事に帰国した) |
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2008年 | ||||||||||||||
3月 | ●両親と支援者が3度目のインド訪問。 捜査はいったん打ち切られていたようだが、家族のインド訪問を聞いて再開された模様。 アグラ警察からナルコティック・テストが関係者6人(運転手、ガイド、ホテル受付2人、ホテル従業員2人 に行われる予定があると聞く。 ●ウッタール・プラデッシュ州の州都ラクノウにて警察長官、マヤワティ州首相の代理人とも面談。 ナルコティック・テストの件を再び聞く。両者とも協力的だった。 *ナルコティック・テストとは麻酔剤などを使って自白を促すもので、インドでは軍隊などでよく使われる 捜査方法。警察が行うときは裁判所の許可を必要とする。 ●ラクノウで記者会見を行い、マスメディアに捜査の強力協力を訴える。数社が記事にする。
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3月 31日 |
この日、バンガロールのナルコティック・テストの専門機関でテストが行われることになっていた。しかし、 後日は入った連絡によると、アグラ警察職員がガイドの家に向かうと、 ガイドは自殺をほのめなかすような手紙を残して失踪していた。 |
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4月 30日 |
正式なものではないが、ナルコティック・テストの結果が信頼すべき筋から両親が知らされた。 結局、テストを受ける前に尋問が行われ、5人のうち、3人はナルコティック・テストを受ける必要が ないとみなされた。耕太が一人で外出したとも、後に運転手たちと外出したとも証言した受付は その必要がないとみなされた。 テストを受けたのは運転手と、1人の従業員だった。そして2人の証言は驚くべきものだった。 運転手ラジュー)9月5日のあの晩、ガイドのゴータムと耕太と3人で一緒に地元の 従業員シャルマ)耕太のバッグからお金を盗んだ。それからチェックアウト・カードに この信頼すべき筋によれば、、正式な報告書は2週間以内に発行されるということだった。 |
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10月 5日 |
ハイデラバード大学の政治学教授、ジョティルマヤ・シャルマ氏が、インドの大手日刊紙「ヒンドゥスタン・ タイムズ」に耕太君の記事を書いてくれた。事件の経過を説明し、両親や関係者がどんなに懸命に捜索 しているか詳細に記している。そして最後に 「なぜ私たちは耕太のことを心配しなければならないのだろう。インドでは毎日にように、テロやさまざまな 犯罪のために人々が殺され、警察がキリキリ舞をしている。しかし、こんな大変なときだからこそ、耕太の話は 私たちにどんな命も掛け替えのないものだということを、思い出させてくれる」と、締めくくっている。 タイトルは 「この捜査を終了させてはならない」 "Don't let it be a closed and shut case" http://www.hindustantimes.com/StoryPage/StoryPage.aspx?id=2d5f5506-1a13-4c68-bdf8-03865ba3ef5c |
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11月現在 | ナルコティック・テストが行われてから半年以上が過ぎたが、 正式な報告書はまだ発行されていない。 そのためにアグラ警察は、新たな捜査に乗り出すこともなく、失踪したガイドの行方を捜している様子もない。 現在、両親、および関係者はバンガロールの機関が一刻も早く報告書を発行してくれるように、 働きかけているが、まだその成果は出ていない。 以上、記載2008年11月17日 更新11月22日 |
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11月26日 | ムンバイで同時多発テロ勃発。犠牲者は100人を超す大事件となる。 | |||||||||||||
2009年 | ||||||||||||||
1月 〜 2月 |
ホームページを見た旅行者の方から、ガイド(ゴータム)と思われる写真が送られてくる。 2006年11月、つまり耕太君が失踪してから2ヵ月後にアグラで撮影されたもので、 旅行者の方たちに自分がガイドをした若者が行方不明になり、警察に取り調べを受けて、 非常な苦痛を味わったことなどを訴えたとメールに記されていた。 ガイドに会ったことのある母親と支援者が見たところ、それらしく見えたが確証が得られないので、 アグラ警察に確認を依頼し、当人であるとの返答をもらった。 |
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2月 | さまざまな方のご協力のおかげか、アグラ警察からナルコティック・テストの調査報告が 日本大使館経由で送られてくる。が、かなり不完全なものだった。 再度、アグラ警察に問い合わせた結果、 ガイドの家族や友人も取り調べたが、「自殺している に違いない」というばかりだったとのこと。また耕太君の荷物を盗んだのはマネージャーではなく、 従業員だったこと、その従業員は拘置所に拘留されていることなどが伝えられた。 |
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2月28 | 昨年3月に自殺をほのめかす手紙を残して失踪した重要参考人の ガイド、ゴータムが、アグラの南120キロ余の古都グワリオールで 身柄を拘束されたと新聞に載る。 日本大使館が後日、この事実を確認する。 |
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3月〜7月 | アグラ警察に捜査状況、およびゴータムへのナルコティック・テストの日程について 何度も問い合わせるが、返答らしいものは得られなかった。 (インドの総選挙が5月中旬まであり、3月から警察はこちらにかかりきりとなった模様) |
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7月30日 | ゴータムへのへのナルコティック・テストが行われたとの報が入る。結果の報告書は 2週間後に送るということだったが…。 関係各所に手紙を書いて、早く出してくれるように依頼する。 |
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9月22日 | 2か月近くたって、待ちわびていた報告書が到着する。 しかしその内容は「耕太と一緒にレストランを出た」ということはおろか、 「あの晩、運転手と耕太と3人でレストランへ行った」ということさえも 述べていなかった。ただ、耕太をホテルに送り届けたあと、運転手と もう一人のインド人(店主?)と3人で、酒場でお酒を飲んだと言って いるだけだった。 つまり「耕太と一緒にレストランを出て行った」とする運転手が ナルコティック・テストで述べた結果と、完全に矛盾する内容となっている。 |
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10月4日〜10日 | 耕太の母親と姉が、家族としては4度目の渡印をし、アグラ警察を訪れたり、 マスメディアに向けて協力をうったえる。アグラを始め、数多くのメディアに 取り上げられる。 (更新10月6日) |
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アグラで2006年9月5日、行方不明になった 篠崎耕太君の 篠 捜 査 内 容 last updated October 6, 2009 |
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耕太君の目撃情報求む! |
*2009年後半の捜査内容を追加、更新しました(2009年10月6日) *茶色の文字で表示されている部分は「探す会」の補足部分です |